谷川俊太郎さん ありがとう!!
【谷川俊太郎さんを想う】
谷川俊太郎さんが逝かれました。
私たちが知った時には、すでにはるか宇宙に行ってしまわれて、ああ、もうこちらにはいないのですね、とただその事実をかみしめるしかありませんでした。
「横田や」をはじめたきっかけが、俊太郎さんの「ことばあそびうた」福音館書店ということは、横田重俊が雑誌などの取材をうけるたびに言ってきたことで、11月に仙台市内で配られたタウン誌の取材でもおすすめの絵本として重俊が手にしていました。
訃報を知ってからの重俊は、店にある俊太郎さん(重俊は、こう呼んでいる)の絵本や詩集やことばあそびの本をテーブルに並べ新聞社の取材をうけ、またDiva(谷川賢作さんの現代詩を歌うバンド)のコンサートをやろうと知り合いに電話したりしている。たぶん、じっとしていられなかったのだろうと思います。
Divaのコンサートを重俊が企画して、何度かやりました。俊太郎さんが加わって、朗読して、それがすごく良かった。声がいい。語り方がいい。回を重ねるとさらに柔らかさをまして、俊太郎さんが好きになる。そんなコンサートでした。
谷川さんは、いつまでもこの世とその世にいるのかと思っていました。油断していた。もうあの世に行かれたのだろうか。その世にいるのだろうか。あの世とその世をいききしているのだろうか。それとも、二十億光年のかなたへ行かれたのだろうか。
横田やのテーブルに谷川さんの本を並べました。これは、売っている本。それから、売らない本もあります。
その中に、現代詩手帳 10月臨時増刊号 思想社(昭和50年10月10日発行)があり、谷川徹三さんがインタヴュー「息子俊太郎を語る」で俊太郎さんについて語っています。
まず自身の若いころを煩悶青年と言い、俊太郎さんが詩作を始めたころを同じだと言っていました。
俊太郎さんの面白いエピソードがありましたら…と聞かれ、自宅の庭でそのころ飼っていた犬がカマキリにちょっかいを出しているのを見て幼い俊太郎さんはカマキリを殺そうとしているとジダンダを踏むように泣いて大人に何とかしてくれと訴えていたことをあげていました。そして、こういう気質はいまでも残っていると。
また、宮沢賢治をよく読んでいたとも。
なにか、もっと谷川さんを知りたくなりました。
谷川俊太郎さん、どうぞはるか遠くからわたしたちに、光のような、音楽のような、言葉のような、詩を送ってください。
ありがとうございました。
てし